山崎蒸溜所は、日本で最初のモルトウイスキー蒸溜所として、
1923(大正12)年に開設された。時代はまだ
ウイスキーが、一般の人には珍しいお酒だった頃。
「日本人の繊細な味覚にあった、日本のウイスキーをつくりたい」。
その熱い想いを胸に、鳥井信治郎という男は、
ウイスキーづくりに乗り出した。
信治郎は、あくまでも日本的な風土にこだわった。
特に重要だったのが、「水」と「環境」。
山崎は、万葉の歌にも詠まれた水生野(みなせの)と言われる名水の里。
茶人・千利休も愛したこの地の水は、ウイスキーづくりに最適であった。
さらに自然環境も、申し分なかった。
京都の南西、天王山の麓の竹林が生い茂る山崎は、
四季折々の変化が感じられる自然豊かな地。
桂川、宇治川、木津川が合流する地点にあり、辺り一帯を山に囲まれているため、
濃い霧がたちこめやすく、温暖かつ湿潤な気候は、ウイスキーの熟成にとってまさに好条件。
「いいウイスキーをつくるには、この水とこの気候を持つ、山崎しかない」と、
信治郎はこの場所をウイスキーのふるさとと決めた。
周囲の反対を説き伏せ、稼働しはじめた蒸溜所。
しかし初めは、試行錯誤の連続だった。
ウイスキーは熟成して製品になるまでに長い年月がかかる。
蒸溜所に日々大量の大麦が運び込まれるのに、
キルン(麦芽を乾燥させる場所)からはただ煙がたちのぼるばかりで、
何も出てこない。村人たちは「あの建物には、
大麦を喰らうウスケという怪物がおるらしい」と訝ったという。
幾多の苦難の末、ようやく1929年に日本初の本格国産ウイスキー「白札」発売。
しかし、その甲斐もむなしく、当時の日本人にはあまり受け入れられない。
それでも信治郎の熱い想いは消えず、むしろその失敗が、男の心に火をつけることになる。
ピートの焚き方を変え、数え切れないブレンドを試みた。
そして1937年に「角瓶」を発売。これが予想を超える大人気となる。
その後も、「オールド」「ローヤル」など次々と名酒を生み出していき、
信治郎は日本にウイスキー文化を根づかせていくこととなった。
それからの道のりも
決して平坦ではなかった。
戦争では、空襲から逃れるために
大麦や原酒を防空壕に運んで隠した。
もしこの時の原酒がなければ、
戦後すぐにウイスキーづくりを
再開することは
不可能だっただろう。
もちろん需要が伸び悩む時もあった。
それでもわたしはここにいて
ウイスキーをつくりつづけていた。
ウイスキーづくりは一度やめたら
二度と元に戻すことはできない。
効率や採算を考えたら到底成り立たない。
ただここで時間の流れと
ともにありつづけること。
そしてウイスキーをつくりつづけること。
それだけが、蒸溜所に与えられた
使命なのだ。